日本を代表する遺物、土偶と埴輪。
目を引く不思議な造形とその愛らしさで、現代の人々を魅了し続けています。
ただ、一緒くたにされてしまうこともしばしば…?
どちらも粘土を形成して焼いたものですからね
気持ち、分かります……
本記事では、そんな似ているようで似ていない土偶と埴輪の違いを紹介していきます。
作られていた時代
土偶は縄文時代、埴輪は古墳時代に作られていたとされています。
その上、2つの時代には600年という大きな年月の隔たりと、大きな違いがありました。
温暖な気候から寒冷な気候への移行と、狩猟採集中心の生活から農耕社会への変化です。
縄文時代にはすでに船による輸出入が行われていたとされています。
その際に、大陸式の稲作が輸入されます。
温暖な気候下で豊かな食生を得ていた縄文人ですが、寒冷な気候の到来とともに食料の一定量の獲得と備蓄が可能な稲作を取り入れることとなりました。
それにより、従来の生活も大きな変化を余儀なくされてゆきます。
これらは当時の人々の思想に大きな影響を与え、自然との関わり合い方や社会の形成など、多様な面に変化を及ぼしたと考えられています。
そのためか、弥生時代には土偶の出土はほぼありません。
大きさ
誰もが思い浮かべる土偶・埴輪といえば、「遮光器土偶」と「踊る埴輪」だと思われます。
では、それらがどれくらいの大きさなのか、想像することは出来ますか。
実は、土偶と埴輪は大きさも全く違うのです。
土偶は最小数㎝のものから最大45㎝のものが発見されていますが、埴輪は1mを超えるようなものも多く発見されています。
先に述べた遮光器土偶は大きい方で、もっと小さな、手のひらに収まるくらいのものも多く出土しているんですよ。
小型の土偶は摩耗が激しいことも多く、「お守りのように持ち歩いていたのでは」と考えられているんだ
対し、踊る埴輪は土偶の最大高さ45㎝を優に超えていますが、埴輪の中ではそこまで大きい部類に入らないのです。
また、奈良県の『メスリ山古墳』では、2mを超える円筒埴輪が発見されており、埴輪最大の名を冠するにふさわしい大きさを誇っております。
作られた理由
当時は現代のように文字が普及していなかったため、残念ながら土偶・埴輪作りについての文献は残されていません。
そのため、今回は代表的な説を紹介していきたいと思います。
土偶は、安産祈願や子孫繁栄、豊穣祈願のための呪術的な道具だったという説が現在一般的です。
多くの土偶が女性を模していることから、「出産することの出来る女性の身体に神秘を感じていたのでは」という考えからくるものです。
人々が生き、繋いでいくための願いが込められ作られていたとすると、現代の私たちがそれらと対面していることはとても不思議なことのように思います。
埴輪は、墳丘(土を盛ったお墓)の上で、葬儀を行う際に使用した葬儀用具が発展したものとされています。
それら埴輪の役割は、埋葬主を悪霊などから守るための聖域を作り出し、生前の功績や権力の大きさを示すなどの目的があったと考えられています。
当時の権力者のために作られたのが埴輪だったということになりますね。
埴輪工人などの職人集団によって、技術の管理や伝達が行われていたため、埴輪作りは仕事としても確立していた背景があったのかもしれません。
造形のモデル
土偶の多くが、人間の女性を造形の対象にしていると考えらています。
乳房や臀部の膨らみ、くびれなど、女性的な特徴が取り入れられているためです。
また、大きなお腹や身体の中央に走る正中線、でべそによって妊婦を表現していることも多いです。
それに対し、埴輪は様々なものをモデルに作られています。
埴輪の元とされる祭儀用の器と台が円筒埴輪へと発展、長く作られていく中で、当時の有力者が所有していた家や物・武具も造形の対象となっていきました。
その後、動物や人物を象った埴輪が作成されるようになり、当時の様子を推察するうえでの重要な資料として重宝されています。
おわりに
違いを意識するからこそ、共通点に気付いて、興味が広がっていく瞬間もあると思います。
だからこそ違いを知ってほしいと考え、このような記事を作りました。
少しでも土偶と埴輪の違い、並びにおもしろさの一端をお伝え出来ていたら幸いです。
以上、代居ナタでした!
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